オヤジ全開! [セネガル]
事務所で出張報告書をコピーしようとしていたのですが、コピー機の「部数」を入力するボタンが見つかりません。
(ちなみに操作画面は全てフランス語です!)
しばらくコピー機を前に悩みましたが、わからず・・。
たまたま通りかかった女性職員に尋ねました。
「あのね、2部焼きたいんだけど、どのボタン押せばいいの?」
すると・・・、
「これです」、と言って、テンキーの「2」を押しました・・。
(なーるほど、PCのプリンターのように部数を指定するプルダウンはないのね・・)
「ありがとぅ・・・」、と言いかけたら、
「コピーは焼きませんから・・。『する』んです」、と笑顔でつっこまれました・・・。
(なるほどね・・)
思わず、「やきもちは?」、と返しかけましたが、呑みこみました・・。
無意識のうちに 「オヤジ全開」 なんだろうな・・・。
オバマがやってきた! [セネガル]
さかなクンふれあいの会 [セネガル]
4月某日、ダカール市内でさかなクンとの「ふれあいの会」 が開かれました。さかなクンはその日の夜行便でセネガルを発たれたのですが、さかなクンご 自身からの「子供達とお話しする機会を・・」との申し出を受けて、当地 にいる日本人家族ほかに呼びかけて実現した会です。
午後4時、さかなクンは、セネガル政府漁業省に派遣されている 日本人専門家とと もに白衣姿で登場しました。頭にはもちろんハコフグの帽子です。
2人の白衣には、まるで「入れ墨の彫り物」と見まごうばかりの、フルカラーの魚の絵が描かれていました。袖には5匹くらいの太刀魚、背中にはセネガルの国民魚のチョフ(ハタ) やタコなどの絵がたくさん描かれていました。
1時間ほどの「ふれあいの会」では、ホワイトボードに貼った模造紙にさかなクンがセネガルで「出会った」魚の絵を描き、その魚についていろいろと説明するのですが、絵を描いている途中にその魚の名前を当てた人には、さかなクンがサインをしてその絵を進呈することになっていました。そして、さかなクンが絵を描いている間、漁業省専門家がセネガルで行わ れている水産プロジェクトの紹介をしたり、セネガルの魚の生態とかを説明しました。その専門家もさかなクンに促されて絵にサインをしていました。
さかなクンが描いた絵は、太刀魚、フグ、カツオ、チョフ、タコの5枚だったと思います。 どれも、色をいっぱい使ってとても上手な絵でした。子供達も大人達も大喜びでした。ちなみに、1枚目の太刀魚の名前を言い当てて、サイン入りの絵をもらったのは、「空気の読めない」おじさんでした。会の最後には、家族ごとにさかなクンと記念写真を撮る時間も設けられ、皆、大満足でした。
さて、
この会のなかで、心温まる出来事がありました。
それは、さかなクンが最後のタコの絵を描いていたときでした。何人かの子が手を挙げたのですが、最初に手を挙げた小学生の女の子(Aちゃん)は、その前に別の魚の名前を間違っ て答えてしまい、残念賞としてさかなクン自筆の名刺をもらっていました。そこで、司会の人が2番目に手を挙げた中学生くらいの女の子(B さん)に答えを求め、彼女が「タコ」と 答えて正解となりました。さかなクンはその中学生の子の名前を絵に描き、サインをしまし た。
その後、各家族とさかなクンで記念写真を撮るとき、「タコ」の絵の時に最初に手を挙げた A ちゃんが、シクシク泣いてお母さんに慰められていることにさかなクンが気がつきました。
「どうしたの?」、とさかなクンは尋ねました。すると、「タコ」と当てて絵に名前を書いて
もらった中学生の B さんがさかなクンに,
「さかなクン、ごめんなさい。私、アレルギーでタコが食べられないの。だから A ちゃんにこの タコの絵あげて。A ちゃんの名前を書いてあげて。」、と頼んだのです。
さかなクンは、「そっか〜、B さんありがとう」、と言って、絵に書いた中学生 B さんの名 前の下あたりに、別の小さなタコの絵を描きました。そして、そのタコの口から墨を吹き出させ、B さんの名前を消し、その脇に、「A ちゃんへ」と書いたのです。
中学生の B さんは本当にタコを食べられなかったのでしょうか? みな、そう感じたと思います。でも、誰もそのことを確かめる人はいませんでした。
最後に、子供達の代表から、さかなクンにお土産が渡されました。一つはセネガルの民族衣 装、もう一つは、セネガルの地元漁師が使う「ピローグ船」と呼ばれる漁船の模型でした。 70cm から 80cm 位はある結構大きな模型です。
実はこの模型は、以前セネガルに来た 我が社の出張者が漁業省からお土産にいただいたもので、「荷物になるから」といって、事務所に置いていったものでした。今回、さかなクンが漁村を訪れた際に、ピローグ船をとても気に入ったらしく、その「置いてきぼりの模型」 に白羽の矢が立ったのでした。
その模型がさかなクンに手渡されたとき、私は「なんで今晩帰るさかなクンに、いまこのタイミングでこんなデカイもの渡す? さかなクン、置いていけないだろう・・」、と思いま した。 しかし、さかなクンは本当にその模型が気に入ったらしく、「持ち帰って部屋に飾りたい」 と言ったので、事務所のスタッフがしっかり梱包してさかなクンに渡しました。さかなクン はあのデカイ模型を、機内持ち込み手荷物として持ち帰ったのです。
さかなクンは本当に、テレビで見たままの、いや、それ以上の人でした。常に他人や子供達 のことを考え、時間があれば自筆の名刺を描き、色紙に絵を描き、本当にスゴイ人でした。 さかなクンに会った人は、大人も子供も誰もがみんな、笑顔で幸せになれました。日本語のわからないセネガル人でさえもみな、ニコニコして喜んでいましたから、人間のコミュニケ ーションは言葉だけではないということが、改めてよくわかりました・・。
さかなクンが来る前は、所内会議で、「さかなクンはなんて呼べばいい? 『さかなクンさん』かな?」、とか・・、
「台本には、漁業大臣表敬時には、『さかなクンでぎょざいます』って挨拶することになってるけど、フランス語にどう訳す?」、とか、いろいろな質問がありました。
ちなみに、事務所のセネガル人スタッフは、「Monsieur Poisson」(Mr. Fish)と呼んでいました。
いまでも事務所にはさかなクンからいただいたサイン色紙と、さかな図鑑が置いてあります。
疲れたときに、ちらっと見て、ちょっとホッとしています。
世間のオヤジ [セネガル]
今の会社に入って9年目となりました。
技術者としての第一線を離れて8年も経ったということですね。
今でも技術者として仕事をしていますし、新たに身につけたものも多いのですが、例えれば大学病院の医局長が開業して町医者になったようなものでしょうか・・。
私の場合、不本意ながら前の会社を離れることになりましたが、結果的には円満退社しましたし、その会社にはいまだに技術的な相談にのってもらって、かつての同僚から大いに助けていただいています。例えるなら、開業医が難しい症例の患者が来たときに出身の大学病院にバックアップしてもらうかのように・・。
「自分のバックには、呼べばすぐに応える、ん百人の技術者が付いている」と真剣に思っていますし、これはとてもありがたいことです。
一方、私が退職した後の会社は厳しい経営環境に晒されてきました。
景気の後退とデフレ。頼みの綱の公共事業は激減し、この8年間で売り上げは半減しています。組織改編、給与カット、つらい日々が続いたことでしょう。中学、高校と一緒だったかつての同僚が心の病に倒れ、帰らぬ人となったという話も聞きました。
幸い私の尊敬、敬愛するかつての上司は関連会社の社長になり、同期入社の友人はみな偉くなっています。私たちが入社した頃は、いわば就職氷河期で、同期入社の技術者はひとケタでした。「選び抜かれた優秀な人材」が揃っていたということでしょう。
最近届いたかつての同僚からのメールには、彼の前任者が出張先の交通事故で大けがをしたことや、会社の人事のことなどいろいろ書かれていました。また、かつての部下からのメールには、「いまの会社は嫌いですね」、と書いてありました。
昨日、その古巣のホームページを見ました。「採用情報」にある「先輩からのメッセージ」には、各部の若手技術者10数名からのメッセージが書かれていました。
誰一人として私が知っている人はいませんでした。
みな私が退職してから入社した若者ばかりです。とはいえ、技術者として8年も経験を積めばもう中堅です。会社を支えている、いわば会社の顔でもあります。各人のメッセージは(ウェブサイト向けとはいえ)希望や意欲に満ち溢れており、ひとしきり読んだ後、「いい会社にいたもんだなぁ・・」と思いました。
複雑な心境でした。
「懐かしいあの人に人混みの中であった・・」、まるで松任谷由実の「グッド・ラック・アンド・グッバイ」のような感じ・・。
ちょっぴり苦々しくて、でも嬉しくなるような・・。辛かったあの頃が今は良き思い出、良い友達になっている・・、それが嬉しいようで少し哀しいとか・・。
そういうとき、そばを打ったり、リコーダーを吹いたり、犬を連れて散歩をしたり、ひとりダラダラと飲んでしまったり・・。
それがいわゆる「世間のオヤジ」です。